ろくでなしBLUES (2000.8.16)〔w〕
作 者 森田まさのり
連 載 集英社『週刊少年ジャンプ』
単行本 集英社ジャンプコミックス[全42巻]
集英社漫画文庫[全25巻]
【ろくでなしぶるーちゅ】集英社ジャンプコミックス[全1巻]
ストーリー  女子のセーラー服が都内で一番色っぽいと言うことで帝拳高校に進学した前田太尊と沢村米示、山下勝嗣は入学式に遅刻してしまう。しかし、今年から制服がブレザーに替わったことを知った前田は、いきなり教師を殴ってしまい……。
設 定  ツッパリでもヤンキーでもチーマーでもない、いまとなっては非常に微妙な世代の不良たちが生き生きと動いている。もちろん現在ではやや風化した印象を拭いきることは出来ないが、テーマそのものは普遍的なもので、十分鑑賞に堪え得るはずだ。前田たちの在学した3年間でストーリーを完成させたことも良かったし、仲間の広がり方が外へ外へと向かっていくのも効果的だった。
 吉祥寺という舞台背景も面白い。渋谷との抗争では井の頭線が活躍し、後楽園へも中央線で一本(実際には乗り換えることが多いが)。井の頭公園というロケーションもあって、ストーリーを盛り上げる。また、四天王が渋谷・浅草・池袋という点はバランス面ではともかくリアリティ面で疑問が残るが、それも十分に許容範囲だ。
シナリオ  とめどなく広がっていくストーリーは爽快だが、果たして整合性が得られたかというと疑問が残る。四天王が出そろう辺りまではまずまずまとまっていたが、その後の川島は不必要だったし、サリーは完全に余剰物だ。ストーリーが過剰気味になっていくと共に細かいディテールも失ってしまい、ラストに掛けて完全に失速してしまったのは残念でならない。ただし、それでも十分に読ませるだけの力を失わないのは、作者の地力のあらわれだろうか。
 また、統合的なストーリーと個々の人物のエピソード的なシナリオが折り重なるように構成されていることにも注目してみたい。こういった手法をとると、たいがい統合的なシナリオの部分がネタ詰まりしたために個々のキャラをいじって誤魔化したなどという歪曲した見方をされがちだが、結果を見れば決してそんなことはないことがわかるだろう。意図的に構築しているのかどうかはわからないが、テンポとバランスの双方を失わない絶妙のシナリオ構成には脱帽だ。
キャラクター  キャラクターが広がっていくのが最大の特徴。しかし広がると云っても個々のキャラクターの幅が広がっていく訳ではなく、ただただ人数がべらぼうに増えていくだけだ。
 ただ、べらぼうに増えていった割にはそれほど支障を来しているわけではない。キャラクターそのものに無理な設定がなく、個々の完成度が高いといったこともあるが、細かいキャラクターたちを途中途中でフォローしているからだろう。米商の八尋や小兵二の弟の三平太などは、ストーリーの重要性と比較すれば、期待以上に魅力的なサブストーリーを作り上げているキャラクターだ。
 また組織を描く上で、トップを支える脇が面白い。前田に対する米示と勝嗣はもちろん、鬼塚に上山・須原、薬師寺に鶴・亀、葛西に坂本・西島、川島にタカ・ウメ、さらに島袋にも八尋、小兵二にさえ弘之と広成がいる。それぞれのサイドに魅力的なキャラクターが揃っているため、「帝拳対○○」あるいは「吉祥寺対○○」という、団体戦的な構図が形成されてくる。個々の争いではなく、集団の闘いになったことでダイナミズムが生まれたことは確かだ。
グラフィック  純粋な少年マンガの絵とは云えない。どこか劇画調でもあり、全体的に黒ずんで見える絵柄には抵抗感のある人も多いはずだ。しかし、第一印象で決めてしまっては勿体ない、豊かな表現が溢れている。2枚目然とした原田やマーシー、徹底的に可愛く描く千秋や観月など一般的な描き方(もちろん技術的なものではなく、キャラクターの立て方の話だ)に対して、米示や勝嗣、ヒロトなどは決して2枚目ではない。前田や和美も抜群の容姿というわけではないし、石松や島袋などひどいもんだ。これは作者が熱狂的なシンパを増やす、サブカルチャー的な要素よりリアリティを追求することを選んだのであろうことを象徴していて、その目論見は見事に当たったと云える。
 さらに特徴的なのはべらぼうな人数に登る登場人物のかき分け。不良の定番といえる「リーゼント」と「パンチパーマ」を米示と勝嗣で使い切った割りには、他のキャラクターに錯誤がおきない。中盤で千秋と和美の区別がつきづらい所もあったが、まずまず許容範囲だろう。
 構図の使い方にも注目したい。際だって斬新なカットはないが、総じてレベルが高い。あおりや俯瞰、アップや引き、風景による心象の表現など、どれもがかなりハイレベルだ。背景バックでセリフを入れたり、手前にものや人物をナメさせたりと、映画を意識したかのようなテクニックは見事だ。
装 丁  作品の取っつきにくさの要因になっていると思われる。表紙はどれも硬派な男共が真剣に描かれていて、迫力のある出来。もちろんいくつか例外があるが、基本的に女性は手に取りづらいだろう。また、裏表紙の血しぶきが迫力。これも功罪双方を生んでいるだろう。
余 談  いつからか、「尊敬」という言葉が文字通り尊び、敬うという意味で使われることが少なくなった。「すげー」「かっこいー」の延長としての「ソンケー」が当たり前になっている現在で、「尊敬」という言葉を堂々と使うことはかなり面映ゆい。そもそも尊敬という言葉が、対象となる人物そのもののように成りたいということなのか、あるいはその一部をうらやましく思うことなのかが個々の価値観によってバラバラであり、これがメチャメチャな口語で使用されるとかなり安っぽいものに成り下がってしまう。
 この作品にも「尊敬」がたくさん登場する。殆どが主人公の前田大尊に対するものだが、当然女性は使用しない。米示や勝嗣が作中で繰り返し述べるように、前田は単純で不器用でバカである。反面筋を通し、義理を重んじ、意地を通す男らしい面が溢れていて、もちろん彼らも前田のそんな面に「尊敬」の念を抱いているのだが、それを「前田さん」と敬称で呼ぶことで表現したことが面白い。彼らの「尊敬」は、彼らがおそらく最も重要視しているであろう「価値観」に対するもので、その理想的なスタイルを貫いているのが前田であるという描かれ方をしている。結果的にストーリーの骨子が、図らずも安っぽさをうむ危険性を回避させたわけだが、果たして現代にこの「尊敬」の精神がストレートに伝わるものだろうか。
 常に時代の波は普遍を貫こうとする作家のアイデンティティを激しく揺さぶる。手塚治虫は「アトム」を悪役にさせられ、鳥山明は放物状に拡大する終わりの見えないシナリオを築き、山本直樹は一般的表現の限界を暴かれた。表現者たちの限界が垣間見えるような恐ろしさを、漠然とではあるが感じざるを得ない。なぜなら、枷にはまった表現を”評価”する人々も確実に存在しているからである。