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イッキ!! (2000.11.23)〔w〕 |
| 作 者 |
久寿川なるお |
| 連 載 |
秋田書店『ヤングチャンピオン』 |
| 単行本 |
秋田書店ヤングチャンピオンコミックス[全9巻] |
| ストーリー |
牧場の息子の一樹はスケベでお調子者の高校生だったが、不慮の事故で命を失う。生前ろくな事をしていなかったため、エンマ大王に馬にさせられてしまった一樹は、手違いで人間の頃の記憶が残ってしまった。「シンガリイッキ」という名前で公営大田競馬の桂木厩舎に登録されたイッキは、「ジャパンカップ」に勝利したら人間に戻してもらえるというエンマ大王の言葉を信じて闘い続ける……。 |
| 設 定 |
馬を擬人化した漫画は少なくないが、元々人間だったのが馬として転生するという設定は斬新で面白い。ただ、「エロパワーが必須」という点は余りに王道すぎており、ありふれた印象を拭えない。作中でうまくその特性を活かしている部分もあるが、結果的にコメディ色を強くしているだけのことだ。笑いをとれば読者は楽しんでくれるという固定観念から脱却出来ていないように思われ、その笑いもやや古臭い。
また、一部でどんどん設定が風化してしまっていくのが残念だ。既に名称が変更になってしまったレース名(京王杯AHなど)や記録(布施氏が云う「2000mのレースで上がりが33秒台前半というタイムは……」など)は、どんどん変わってしまっていく内容を、作中で予想するのは難しい。ただ、問題が起こるのを承知で何も策をめぐらせない点には失望感を感じる。大胆に予想を立てて構成を作れ、あるいは現実の追随に徹しろとはいわない。ただ、全くの無策ではあまりに芸がないと云わざるを得ない。 |
| シナリオ |
とにかく、主人公の動きを忠実に追いかけたストーリーだ。個性的な脇役の欠如や、余分な展開を許さない掲載誌の雰囲気もあるいは影響しているのかも知れないが、競馬に携わる人々同士の人間ドラマというものは、最後まで存在しなかった。それはもちろん人間だった主人公を馬に転生させるという、この作品の屋台骨とも云える設定のためなのだが、そのためにストーリーに幅がなく、余裕の少ない作品になってしまった。これでは伏線など引きようもないし、キャラクターにも厚みが出ない。表現の手法も限られてしまい、わざとらしく感じてしまう部分も少なくなかった。
リアリティのなさも深刻である。いくら文中で「常軌を逸したペース」などと説明したところで、南関東ダービーの前半1000m70秒2の通過タイムはやりすぎだし、余りに過酷なローテーションにも無理がある。一応リアリティを出す場所はわきまえた上で描いている点は評価できるが、結果的にムラやモレが多く見られるのは残念だ。 |
| キャラクター |
主人公とその周りをオリジナルで固め、その他は借り物で済ませるというやり方はかなり使い回された手法だ。騎手と地方競馬の競馬場、一部のレースは名称を一部変え、その他はそのまま流用しているところも、こだわりが感じられず、節操なく映る。最大のガンはライバルのうちの一頭として「ヤミショウグン」を登場したことで、借り物とオリジナルに全く線引きを行っていないことを露呈してしまった。
人間のキャラクター性にも幅がない。騎手の弥生や宇佐見、厩務員の杉などはまずまずだが、全体的にインパクトのあるサブキャラクターが少ない。イチ押しが「タンバ」というのも、ちょっと寂しいところで、残念な限りだ。 |
| グラフィック |
絵柄は無難。青年誌によく見られるパターンの1つで、決してクセがないわけではないのだが、慣れと無茶をしない程々の曲折で読ませてしまっている。女性キャラのフェロモンの出し方などにはそれが端的に表れていて、ややマンネリを感じるところだ。
同様に、構図やコマ割にもさほど工夫は見られない。ただ、ダービーGPのライバル馬の紹介に、数少ない例外が見られた。ベニノスワン・ゲンロクエース・アリアケタイテイの3頭を紹介するのに、上のコマで馬のアップ、下のコマでレースのカットを配しているのがそれで、妙に整ったワクにハッとさせられる。あるいは、この3頭の馬を対等の扱いとするための工夫とも考えられ、興味深いところだ。 |
| 装 丁 |
無難。青年誌連載作品の単行本としてはちょっと地味な印象を受ける。 |
| 余 談 |
テンポイントからサイレンススズカまで、故障によってターフの露と消えた名馬は少なくない。世界で最も固いと云われる高速馬場で、極東の島国は数々のスターホースを失ってきた。競馬を愛する人々は、あるいはサクラスターオーの悲劇に涙し、ライスシャワーの不幸に落胆し、マティリアルの蹉跌に焦燥を感じた。舞台は国内ばかりではない。遙かアラブの砂の海で、連戦連勝の女王ホクトベガはその生涯を閉じた。
一時の泡沫的な競馬ブームが過ぎ、理性と理念を併せ持ったファンが増えるに連れ、薬殺処分を感情的に批判するようなことはなくなってきた。競走馬の経済動物としての側面や、関係者の努力などがより正確に伝わるようになったことがその要因であろうが、一方で悲劇が起こった場合のペシミスティックな情念も決して失われていないのは良いことだと思う。
競馬漫画のうち、ドラマを追求するストーリー漫画のほとんどで、物語を盛り上げるために予後不良が描かれる。ダイレクトに薬殺の場面を描くものもあれば、その手続きを暗黙の了解として省略するケースもある。しかし、いずれもそのシーンは最大にして唯一のクライマックスであるべきであった。
この作品はその概念を打ち破る。南関東大賞典でのファントムフライのパンクはその実績だけでなく、馬自身の性格・キャラクターや鞍上のポジション、主人公との関係などあらゆる面で見事な表現だった。一方のファントムフライの故障も、ストーリー・構成面でのディテールの甘さはあるものの、その後の展開を考えると悪くない判断だったかも知れない。しかし、1つの作品で2度の悲劇を描くことで、互いに双方のインパクトを薄めるという致命的な欠陥を生み出してしまった。特に後者は、そのイメージによる抵抗感が強い。
野球やサッカーとは違い、競馬というスポーツは舞台が非常に限られている。そもそも日本には競馬を行う組織が2つしかなく、アマチュアも存在しない。そのためレース自体を創作するのには限界があり、どの作品も同じローテーションの中をぐるぐる回ることになる。始めは騎手を主人公に、調教師、オーナー、記者、生産者から、馬自身を擬人化して主人公とする作品もある。この閉鎖的なジャンルは、あるいは有限の資源なのかもしれない。1つのアイデアをある作品が使ってしまったら、他の作品は永遠にそれを使えない。制作者はその辺りの配慮をも頭に入れ、より完成度の高い作品を作る努力をする義務があるのではないだろうか。少なくとも「予後不良」を最大のドラマとすることは、そろそろ無理が出てきた。議論の余地が限りなく少ないこのテーマに対して、社会的倫理を振りかざすのもまた、今となっては不可能なことである。 |