Vol.5 読切作品の連載化 (2000.2.19)〔w〕
 当初読切作品であったものが予想外に人気・反響があったため連載化することになった、という例は少なくない。これは特にまだそれほど実績のない新人作家の作品に多いものだが、最近この手法についていささか疑問を感じる。
 たとえギャグマンガやエッセイマンガといってもキャラクターの個性をシナリオが左右する事は多い。ましてやストーリー漫画に置いてシナリオは非常に重要な要素である。読切作品の連載作品への転用という手法はこういったシナリオ重視の作品に特に大きな影響を与えていると言わざるを得ない。当然読切というものは1話完結のストーリーが構成されているわけで、これを「第1話」として転用するとなるといささかの無理が生じてくる。もちろん第1話を改めて書き直し、はじめから連載作品として再スタートすればいいのだが、わざわざそんなことをする作家(というか出版社)はごくごく稀なのだ。
 読切が「第1話」になるわけだから、それ以降は必然的にオムニバスの形式を取ることが多い(もちろんキャラクターはそのままで)。即ち読切作品の連載転用によって連続したストーリー漫画の数を少なからず減少させているのではないだろうか。もちろんオムニバスが悪くて連続ストーリーがよいということはない。しかしある一つの形式が増加することで他の部分にしわ寄せが来るであろう事は想像に難くない。最近ではただでさえ壮大なストーリーロマンを味わうことのできる作品が少なくなった。読切の連載化を一概に「安易」と片づけるつもりはないが、もう一度見直しが迫られる部分の一つであると思う。だいたい各出版社の新人賞にしても、ページ数を限定した読切を対象にしたものばかりだ。1000頁をこえる超大作を書き上げてきた新人(そんな新人がいるかどうかは別として)を即デビューさせる環境くらい整えていてもいいのではないか。少なくとも小説や映画脚本にはそういった道(書き下ろし、各種シナリオ賞など)が用意されているのだ。

Vol.4 批評のための漫画引用 (1999.9.29)〔w〕
 先月31日、東京地裁で漫画批評に対する司法判断が下された。各種メディアでも報道されたこの裁判は漫画の特性を考慮した画期的なものであるといえよう。
 この裁判は小林よしのり氏がその著作「ゴーマニズム宣言」の著作権を侵害したとして「脱ゴーマニズム宣言」の著者で関西大講師の上杉聡氏を訴えたものだ。著作権法第三二条一項には「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない。」とあるが、引用の表現方法には特に規定がない。判決では批評という目的を明記し、さらに引用部分全ての出典を示すなど十分に注意を払った被告側の手法が考慮されて適法と結論づけられた。これは以上のような条件を満たしていれば漫画の引用は認められるが反対に無制限に引用を行うことは許されないと云うことであり、漫画批評を行う上でのルールに一定のラインが確立されたといえるだろう。
 個人的には今回の判決は妥当なものだと思う。まず、この裁判で文章や絵画を対象とした判例と照らし合わせた上で判決が下されたことを高く評価したい。漫画という表現手段は文字と絵を組み合わせた特殊な形体で作られており、批評する上でその対象物のイメージを忠実に伝えるためにはどうしても一部を引用する必要がある。また、同時に漫画が文化的に無視できない位置にいることが確認され、文学でいうところのいわゆる「子引き」「孫引き」が漫画でも認められるようになるための道を確立した。そして今後批評者側が相手側の作者、出版社の許可が得られない場合に引用を諦めるというようなことも避けられるなど、その意義は大変大きい。
 今回は著作権を有する作者、出版社側の権利が一方的に後退する結果となったが、同時に批評者側により一層の責任を求める必要がある。営利目的を優先した批評や論理性のない感情論、相手側のイメージを考慮しない無秩序な批評はぜひ避けて欲しい。現在インターネットの世界はまだまだ規制が甘いため早急にこれといった影響があるわけではなかったが、将来的にも漫画のカットを画像として批評の一部に加えることが認められたわけで、文字通り漫画批評を行っているこのサイトには非常にありがたい判決であるといえた。今後も常に自戒の念を持ちながら批評を行っていきたいと思う。

Vol.3 子供の漫画離れ (1999.8.19)〔w〕
 子供の漫画離れがすすんでいるという。我々の世代にはちょっと考えもつかなかったことで、むしろ「漫画を読んでいる=遊んでいる」と親にも学校にも社会にも決めつけられて辟易していたものだが。主な理由としては「エンターテイメントの複雑化」があるらしい。
 昔はまずゲームなどなかった。都会では経済的な優越性もあって小学生でゲームセンターに入り浸っていた子供たちもいたようだが、ファミコンが登場するまで地方のガキどもは空き地で遊んでいたものだ。PC−6001やMSX、カセットビジョンやぴゅう太で遊んでいたというやつがいなかったとはいわないが(だいたい僕が『信長の野望〈元祖・なんとカセットテープ版だぞ〉』なんてもっていたしね)、たいていの家で帰ってから遊べるものといったらテレビくらいのものだった。そんなテレビだってまだビデオがそれほど普及していなかったから見たいものをいつでも見られるという環境にはなく、また当然OVAという者は存在しないからオリジナルアニメもそれほどの勢いではない。
 確かに一時期に比べると漫画に対して不利な材料が多くなっているような気もするが、しかしながらそんなことは言い訳にはならない。最近漫画に勢いが無くなっているのはどうしようもない事実だし、勢いがなければ当然のように子供たちは離れていくだろう。少年ジャンプには(好き嫌いや善し悪しは別として)『キン肉マン』や『キャプテン翼』『北斗の拳』を連載していた当時の勢いはないし、少年マガジンが発行部数トップになったのはトップが勝手にコケたからだ。スピリッツは相変わらず看板がないまま営業を続けていて、モーニングは過去の人気作を焼き直すことで現状を維持しようとつとめている。このまま何年かすれば漫画も能や狂言のように「枯れた文化」になってしまうかもしれない。
 そもそも文学だってかつては遊びの一種というか娯楽のようなものだったようだが、現代では困ったことにとにかく本を読んでさえいれば勉強していると勘違いされてしまうことだってある。僕の友人は中学の時に自分の部屋で「三毛猫ホームズ」を読んでいたら母親が「頑張ってるわねえ」なんていいながら夜食を持ってきたらしい。漫画だってそのうちなんだかよくわかっていない親たちが「何だ、タカシは帰ってくるなり漫画を読み出してどうしたんだ?」「テストが近いから頑張ってるのよ」なんて言い始めないとも限らない。学校では牛乳ビンの裏のようなレンズをつけたメガネっ子が文学少女ならぬ漫画少女などといわれ、手塚賞や藤子賞の発表は新聞テレビで大々的に取り上げられるかもしれない。ノーベル漫画賞が出来るかもしれない。まあ別に僕はそれでも一向にかまわないからいいんだけれどもね、自分がバカな親にならない限りは。

Vol.2 「プライバシー」と「盗作」って何だ? (1999.6.30)〔w〕
 先日、作家の柳美里氏が裁判で敗訴の判決を受けた。まだ第1審のようだし、詳しいこともよく知らないのでこういった問題について書くのは僭越な気もするが、個人的な意見としてはちょっと日本全体で表現者に対する規制が厳しくなりすぎてきているのではないかと思う。
 小説や映画、漫画というジャンルはその殆どがフィクションである。フィクションとは虚構、つまり非現実の事柄を書いたものであるということだ。テレビドラマの最後には必ず「このドラマはフィクションです」というテロップが流れる。これは視聴者に「あなたの事をネタにしているのではないですよ」と印象づけ、無用な誤解や苦情を減らす為だという。このことは「フィクションであればプライバシーの問題は存在しない」ということを示す、1つの具体的な事例となるのではないかと思う。作家が登場人物を誰をモデルにして作ったのがが明確でない場合、それを読者が想像することは止めることができない。だからといって、モデルを明記したり、モデルになった人に許可を得なければいけないなどという馬鹿げたことを強制することなどできるはずもない。作家には最大限の自由が与えられるべきだし、それは憲法で「表現の自由」として認められている権利である。なにせ、彼らが書いているのはあくまでも「フィクション」なのだから。
 もう一つ、「盗作」の問題も重要である。「盗作」とはいったいどこからどこまでだと定義すればよいのか、これほどファジーで基準のハッキリしない事柄もないのではないかと思う。先に、小林亜星氏が服部克久氏を「盗作した」として告訴したときには驚いた。どれとは言わないが、この程度の似た作品なら音楽業界には腐るほどあるだろうと思うし、正直なところこのレベルの似方で法廷闘争になるのはたまったものじゃないという気にさせられる。。
 たとえば3つの作品の一部分をそれぞれ抽出し、それに何も手を加えないで新しい別の作品として発表したらそれは盗作といわれるだろう。しかし、百万種の作品のそれぞれの一部分を組み替えて発表すれば果たしてそれは盗作といえるのだろうか。この作品がきっちり百万個の単語で作成されていたら盗作であることを判断することは不可能になる。かつて中世日本、和歌の世界では「本歌取り」というものが流行したらしい。優れた歌の一部分を真似して新しい歌を作るというものなのだが、困ったことにこんな事が現代で行われれば「盗作だ」などと騒ぎ立てる人が結構出そうである。
 この他にも表現者を縛るような要素はたくさんある。「有害指定図書」などというものもその典型だろう。もちろん文部省やPTAがヒステリックに叫ぶような悪影響を与える漫画がないとは云えないがそういったリスクは創作活動には付き物であろう。プライバシーや盗作の問題とこのことを全く同列に論じることは出来ないかも知れないが、少なくとも目くじらをたてて発禁作品を探すような必要はないのではないか。表現者にとって規制は一番の大敵であると思うし、結構そんな外圧(プレッシャー)に畏怖しながら机に向かっている人も多いのではないかと思うのだ。

Vol.1 漫画は理解されない (1999.3.8)〔w〕
 '99年2月22日号の『AERA』(朝日新聞社)にこんな一文があった。「中年のほうが文化を馬鹿にしていますよね。この国の特徴だけれど、政治・経済より低いものだとみなしている」。
 まったくもってそのとおりだ、と思う。「文化」でさえそんな扱いなのだから、「サブカルチャー」なんてものは中高年世代には全く理解できないものなのだろう。そして漫画も、世間一般では依然として「サブカルチャー」として定義されている。
 映画が文化として認識されるようになってしばらく経つが、ならば絵画と文学という文化を融合したといえる漫画も、同じように扱われるべきだと思う。なぜ漫画はいつまでも文化として認識されないのか。原因の一つが、中高年が読む漫画というものは新聞や一般雑誌に掲載される4コマの形態でのそれであるからではないだろうか。それらの殆どは、社会風刺を主体としたエンターテインメント的要素の強い「非文化的」なものであるからだ。
 言うまでもなく、エンターテインメントとしての漫画が否定されるわけではないし、むしろそういった漫画はなくてはならないものである。しかし漫画の可能性とはそれだけのものではないこともまた当然のことである。漫画は他の「文化」には表現することのできない様々な問題を伝達することが出来る。だからこそ、漫画は間違いなく「文化」でなければならないと思うのだ。
 学生時代、「本を読め」と親や教師からくどく言われた経験のある人も多いと思う。なぜ漫画ではいけないのか。読書感想文に漫画の感想を書いたらどんなに素晴らしいものができあがるだろうと思ったのは筆者だけだろうか。少なくとも自分に関して言えば、どんな素晴らしい小説から、どんな素晴らしい映画から得たものよりも、漫画から得たもののほうが大きかったのだけれど。