| Vol.9 漫画家と著作権(1) (2000.7.9)〔w〕 |
| 漫画家の収入は主に3つの系統があるという。1つは雑誌等に連載された作品に対する稿料、2つ目は単行本の売り上げによる印税、3つ目は作品がアニメ化されたり固定層の人気を獲得した場合に発売される、グッズの売り上げなどによる収入だ。このうち最も収益が多く、メジャー漫画家の財布を支えているのが2番の印税である。しかし、現在この重要な収入源を脅かす存在が次々と現れているのだ。
その1つが古書店の存在である。かつての薄暗いイメージだった古書店は、ここ数年で実にドラスティックな変化を遂げている。全国規模のチェーン店やコミック専門の大型店など、明るく親しみやすい雰囲気作りを進めた結果、新刊本を扱う書店の経営を圧迫しかねないほどの規模に成長した。 日本に限らず、多くの国で著作者は古物に対して特定の権利を有していない。そのため、古書店が古本の売り上げをいくら伸ばそうとも、作者には一銭も入ってこないことになる。「資源のリサイクル」といえば聞こえはいいのだが、結果的に表現者に対して正当な報酬を与えないことになってしまっている。 この古物に対する報酬の問題は音楽も同様の問題を抱えているのだが、その最大の理由として「再販制度」があげられることが多いようだ。日本では本やCDなどは、出荷元が小売店に商品を委託し、販売してもらう制度をとっている。売れなかった商品は出荷元が回収し、小売店には損失を与えないという方法だ。そのため本もCDも全国均一価格で、販売過程で競争が行われることはない。そのためどうしても販売努力は行われなくなってしまう。価格が下がらないのだから消費者が古書に飛びつくのは当たり前で、こうした流れはこれからますます加速していくだろう。しかし、再販制度の見直しにはなお慎重な意見が多い。これは文化財産である書籍や音楽が売り上げ至上主義によって崩壊するのを危惧する声が高いためである。 再販制度では音楽と同等の扱いを受けている漫画なのだが、それではいったい何故漫画ばかりが打撃を受けるのかといえば、著作権法が貸与禁止権を著作者から奪っているからである。著作権法附則第4条の2には「新法第26条の2の規定(著作者は、その著作物をその複製物の貸与により公衆に提供する権利を占有する)は、書籍または雑誌の貸与による場合には、当分の間、適用しない」とある。つまるところ、レンタルやらカラオケからも収入の入ってくる音楽に対し、書籍・雑誌では全く入ってこない。この部分に目を付けたのが、古書店と共に急成長している「マンガ喫茶」である。 古書店もマンガ喫茶も、我々消費者にとっては実に便利なものだ。しかし作者の権利を侵害し、自由な競争を呼べないのであればそれは容認すべき問題ではなくなる。作者側と読者側のいずれの権利をも守られるような、公平で活発な議論が行われることを願う。 |
| Vol.8 批評のあり方(1) (2000.6.7)〔w〕 |
| 「批評」とは文字通り批判と評価の事である。物事の良い点・悪い点を取り上げ、価値を論じるものである。しかし現状では価値を論じるといっても、必ずしも論じられているとは言い難い。おおよそ蔓延しているものは単なる印象批評・感情批評にすぎない。
かつて久保栄氏が「二百枚の戯曲には二百枚の批評で応えるべきだ」といったような「批評家精神」はほとんど見受けられない。元来政治や経済よりも文化・芸術は下等なものであるとする風潮があるこの国は、特に通俗文化に対する認識と評価が甘いのだが、それがより顕著なのが例えば放送批評であり、高度成長と共に急速にテレビが普及した時代からその質・スタイル共に、それほど成長していないのではないかと思われる。 そもそもマス・カルチャーは作品そのものが特定の受け手に対して提供されているものではない。相手が広い一般大衆であるが故に、どうしても低いラインに統一されがちであるため、倫理批評は容易に生まれるのだが、その上の次元をいくものはなかなか生まれづらい。なまじ倫理批評による倫理的な規制は存在するだけに、社会全体が高レベルの批評自体の必要性が薄いような錯誤をおこしてしまう。 もちろん現実的に優秀な通俗批評が全く存在しないわけではない。しかしながらそういったものは絶対数が少ない上に、ごく一握りの媒体にしか登場してこない。文化意識の低さに伴う高質な芸術を追求しない国民性はその原因の一端であり、とくに曖昧な表現を是とし、論理的な論評を適切に評価できない風潮を作り上げている悲しさがある。 特に情報の伝達のみを的確に行うべき報道番組で、アナウンサーとも解説者とも違う、キャスターという曖昧な職業が幅を利かせているような奇妙な状態が延々と続く放送業界に於いて、その傾向は顕著であった。代用品文化と呼び、朗読やドラマは文学や映画の代わり、音楽は生演奏ができない場合に代わって機械を通すものだと見なしてきた日本の論界は、マイクの効果までを細密に研究し、意識して機械芸術を育ててきた欧米の評価とは隔絶の感がある。そのためグループサウンドからアイドル全盛期、バンドブームから和製R&Bに至るまで、「レコードアーティスト」が「ライヴアーティスト」に比べて、地位が圧倒的に低くなってしまったこの島国は、いつまでたっても差別的で偏向的な思考回路から抜けきれないでいる。 戦後急速に発展した漫画文化もまた、そんなしがらみから完全には脱却できていない。確かに、一般的にストーリーを伴う芸術というものは分析するのが極めて難しい代物なのだが、それならばせめてストーリー以外の部分だけでもロジカルに、客観的に批評していこうという姿勢はほとんど見られなかった。同じストーリー芸術でも、書評は文学部が、演劇は演劇学部が、そして映画には映画学校があった。机上の空論と誹られようと、アカデミックな研究は社会的認知を示す一つの指針である。漫画文化が歴史の浅いことを理由に学界に認められず、その啓蒙が促されないのなら、メディアなりジャーナリズムなりがそれを補うほかないのではないか。 感情批評や印象批評が悪いとは云わない。そういったものに対する世間からのエクスキューズが高いことも十分理解できるし、極端に攻撃的でない限り社会的に悪影響を与えることは少ないだろう。倫理批評に対してもまた然りで、一般大衆にとって有害かどうかという点しか考慮に入れていないシンプルな批評であるそれは、一方で未分化かつ平均化された稚拙で単純な部分を内在しているわけだが、少なくとも有害なものの蔓延を阻害するという効果だけは存在する。表現者にとって批評がないというのは堪らなく寂しいものであると云うから、そういう意味でも、もし社会が感情表現や倫理批評しか行う能力がないのであれば、文化芸術の発展のためにはないよりはあった方がいい存在ではあるのだろう。しかし、これらを論理的な批評と混在させることだけはあってはならない。そこから生み出される誤解と錯覚は少数意見の排他と啓蒙意識の阻害を促進する、唾棄すべきものでしかないのだ。 |
| Vol.7 スターシステムの是非 (2000.3.15)〔w〕 |
| ある作品の登場人物が同じ作者の別の作品に登場する、いわゆるスターシステムが昨今の作品には頻繁に登場する。手塚治虫や藤子不二雄(藤子・F・不二雄)、水島新司といった大御所にも見られるこの手法はかなり昔から行われてきたもので、小説や映画など漫画とは違ったジャンルのストーリー作品にも多く見られる。
このスターシステムは、大抵の場合ストーリーに直接的な影響を与えない。これは手塚治虫のヒョータンツギ(時にお茶の水博士、ヒゲオヤジなども)、藤子不二雄(藤子・F・不二雄)の小池さん(ラーメン大好き)、あるいはあだち充のパンチのように、説明部分の補助的な役割や作者の個人的な”遊び”、あるいは軽いギャグとしての役割を担うものが多いためで、いわば作家が自信の特定のファンへ向けて描かれているものが多数であった。しかし時代が経過するにつれて、複数の作品のキャラクター(脇役だったキャラクターであることが多い)たちを別のサイドストーリーの主役としたり、全く別のオリジナル作品を作り出すことも少なくなくなっていく。 スターシステムは本来選抜された読者(つまりは作家の特定のファン)を過剰に優遇するものであるため、その存在はあまり全面押し出すべきではない。しかし、実際に特定ファンによってセールスの多くを支えられている現状では、多少のサービス精神は黙認されていると言うよりむしろ評価されている。だが、以前に発表された同じ作家の作品を読まなければ内容を完全に理解できないようなものは前作の「続編」と言わざるを得ないのではないか(本来、「続編」そのものも存在が疑問であるが)。ちばあきおの「プレイボール」(「キャプテン」のキャラクターが登場)やCLAMPの「X」(「東京BABYLON」のキャラクターが登場)はその典型的な例なのだが、キャラクターを借りた事によるメリットはそう感じられない。 多少の遊び心は結構なことだと思う。「パーマン」のパー子が星野スミレとして「ドラえもん」に登場したり、あ〜るや鳥坂さんが「パトレイバー」や「じゃじゃ馬グルーミンUP!」に出てくると漫然とした雰囲気が打破されてメリハリが出てくるし、かなり実力を持った作者が行っているため技術的にもそれほどストレスを感じない。これがあくまで「余裕」であって、「慢心」に基づいたものにならないことを祈りたいところだ。 |
| Vol.6 装丁にも工夫を (2000.3.1)〔w〕 |
| 一昔前まで、子供たちは立ち読みする事によって雑誌に、単行本に接していた。経済力のない少年・少女は高い単行本をなかなか手に入れることができず、必然的に本屋で読むことになったわけだが、80年代から徐々にこの光景は消えていく。その理由は「ビニールカバー」の登場だった。
立ち読みによって売り上げが減少することを恐れてか、はたまた本が汚れてしまうのを防ぐためか、大手を中心に書店は薄いビニールカバーを掛けることによってページを開けないようにするようになる。90年代になるとこれは地方の小書店でも当たり前の光景となり、立ち読みをする人口は激減した。勢い、消費者は内容を見てから商品を買うことは難しくなり、そのため漫画喫茶やカバーを掛けない古書店は大盛況をおさめる事になっていったわけである。 「ドラえもん」に登場するように、昔の子供たちは本屋のイヤなオヤジの目を盗みながら立ち読みをしていた。これは一つの文化だったし、頑なに規制を行うことで書店自体の敷居が高くなり書店自体に足を運ぶ回数が減ったのは事実である。なにせ買うだけならコンビニでもキオスクでもいい訳だ。もちろん各書店は経済性を重視して行っていることであろうし、それに文句を付ける気は更々ない。一部の消費者に嫌われようが一定の利益を得ることを優先させるのも仕方ないだろう。問題はこれらを製造している出版社である。 消費者はこうして商品の内容を確認することを制限されてしまったのだから、当然「見た目のイメージ」に頼ることが多くなる。では立ち読みが急減してからそういった「見た目のイメージ」を各出版社が補助する行動を行ってきたかというとちょっと疑問を抱かざるを得ない。 云うまでもなく「見た目のイメージ」とは装丁に現れる。わかりやすく云えばカバーデザイン・イラスト・題字といったビニールカバーの外からであっても見分けが着くものである。これらに内容を示唆する表現、イメージを何とかして盛り込まなければならない。学園ドラマであれば表紙の人物イラストに制服を着せる、ポップなコメディであれば題字をかわいい書体にする、日本文化を描いた人情ものであればバックを和風調に仕上げる。やってみようと思えばいくらでも方法は思いつくはずだ。もちろん出版社だけではなく、作者自身やデザイナーの意識改革も必要だ。見た目の格好良さや自分勝手な制作者のエゴなどいらない。原稿だけでなく、もっとマクロな視点での努力を切に望みたい。 「カバーは本来汚れや傷を本体から守るためのものである」としてカバーに対する価値観を無視する考え方もある。しかし実際にカバーは本体とセットとして売られているわけで、商品としての価格の一部に入れられている以上、そういった考え方は当たらない。最近では古書店でもないのに本体のサイドを削って販売している店もある。おそらく黄ばんでしまったり汚れが付いたための処置なのだろうが、規定のサイズから上下3mmも削れてしまっており、しかも削った後が実に明瞭なものを「新刊」として定価で売るのは、もはや消費者を愚弄しているとしか思えない。書店サイドが行っているのか回収した出版社が行っているかはわからないが、もう少し誠意ある姿勢を望みたいものだ。 |