Vol.15 少女漫画の単行本は詐欺だらけ (2001.4.1)〔w〕
 これは仕方ないことなのか、あるいは少女漫画を避けに避けてきた私が悪いのか。よくはわからないのだが、世の中の皆さんはあの少女漫画の「おまけ」がよく気にならないものだと思う。
 少年漫画や一般向けの作品にはまずあり得ないことだが、少女漫画では連続ものの単行本発刊の際、よく巻末に別の読切漫画を入れることがある。小学館も講談社も集英社も白泉社も、『コミック』も『りぼん』も『マーガレット』も、多かれ少なかれ、どこでもこういうことをやっている。なんだかこういったことは既に業界の慣習になっているような感じなのだ。少年漫画でこういう例はほとんどない。作品内のキャラクターが独り立ちし、サイドストーリーとして挿入されることはあっても、全く関係のない短編が単行本に同居することはまずない。
 だってそれは当然のことだろう。「看板に偽りアリ」ではないか。読者は特定の作品を読みたいから単行本を購入する。400円なら400円の価値があると想定して購入するのである。しかし、単行本の全てがその作品ではないのであれば、その本には400円の価値はない。全ての価値が失われる訳ではないが、目減りするのは事実だろう。
 極端な言い方をすれば、これは詐欺である。表紙で堂々と作品名を謳っておきながら、内実はその半分が違う作品だったりするのである。ミルクチョコレートの包装を明けたら、半分がクッキーだったようなものである。ベンツを買ったら、内装だけカローラだったようなものだ。表表紙とは云わないが、せめて装丁のどこかに、挿入された短編の作品名くらい記述して欲しい。消費者はビニールのかかった単行本しか購入できないことも少なくない。ネット書店なら、モニターの中に映る解像度の低い表紙画像で買わなければならない。それともなにか、人気作品は混ざりものを入れてでもハイペースで発刊しなければならない理由でもあるのか。まるでひと頃のタイ米騒動などを思い出してしまうのだが。

Vol.14 レディースコミックを読もう (2001.4.1)〔w〕
 どうもここのところ、ラブストーリーがよく解らない。いやいや、もちろんラブストーリーという言葉は知っています。表面的な言葉の意味じゃなくて、そこからぐっと、ぐぐっと踏み込んでみたい。ああ、グッと。マッチですな。
 いや、どうも「男が嫌う女性ラブストーリー」と、「女が嫌う男性ラブストーリー」がよく解らなくなっているのです。いやいや、女性が嫌うほうは解ります。クライ・クサイ・キタナイの3Kなのです。おいおいいつの話だいとお思いでしょうが、ホントなのです。男がウジウジしていて暗い漫画を、大抵女性は嫌います。いかにもワンパターンで、クサい漫画を、大抵女性は嫌います。そしてストーリーを引き延ばすだけ引き延ばしておいて夢オチで終わらせるような汚い漫画を、大抵女性は嫌います。男のようにお約束ではすませないのです。シビアなのです。
 で、男が嫌うのは、昔は「りぼん」やら「なかよし」のようなコテコテの少女漫画だったのですが。どうやら『BOYS BE…』あたりから雲行きが怪しくなったようなのです。『りぼん』より『BOYS BE…』の方がコテコテだったりしますから。また、少女漫画にも面白い作品があることがわかりだしてから、男性も(外見はともかく)中身には抵抗が無くなってきたような気がします。じゃあ、女性向けの漫画が全て偏見が無くなった、払拭されてきたかと言えばそうでもないのですね。そう、なんでレディースコミックはあんなに人気がないんだろう。
 はっきり云って僕も、ほんの5年くらい前までは一度も読んだことがありませんでした。でもね、絵柄はともかく、ストーリーは予想以上に面白い。レディースコミックは、その殆どがラブストーリーであるのですが、女性作家の書くラブストーリーは、やはりなめちゃいけないと思うのです。ディテールに凝っているわけでも、奇抜な展開が待っているわけでもない。しかし、ありきたりな雰囲気も感じない。絶妙のバランスの上で成り立っている作品が非常に多いような気がします。どんな風にバランスがいいかと云われるとなかなか総括的には表現できないのですが、とにかく読んでみればその魅力は解るはずではないかと思うのです。
 『南くんの恋人』から『ぽっかぽか』、『イマジン』に『ハッピーマニア』……。近年、ドラマ化されるレディースコミック作品が妙に増えています。そもそも僕は、漫画をドラマ化することはあまりいいことだとは思わないのですが、しかしながら、少なくともそのストーリーとキャラクター性が他業界から一定の評価を受けていると云うことは最低限云えるのではないかと思います。絵は確かにキツイかも知れない。でも、男性の皆さん、レディースコミックは意外に面白いですよ。

Vol.13 古本屋で深慮遠謀 (2001.1.17)〔w〕
 別に、ここ最近始めたわけでもないんですが、よく古本屋めぐりをします。金銭面で、あまりユタカでない生活を続けているため、よっぽどの事がないと、新刊本などそうは買えないのです。まあ、「よっぽどの事」といいながら、実際結構あるわけですが。
 さて新刊本を買うのは、雑誌連載を見ていて気に入った作品、一方で、古本で買うのは、主に昔読んだことのある作品が多くなっています。漫画喫茶や友達の家で読んだもの、あとは絶版本などですね。新刊はあのビニールがイヤなんですよ。時々ゴムがかかっている場合もあるんですが、あれは意味がないですよね。ゴムがかかっていても読めちゃうから。あ、でも気持ちの中では、少しアトズサリしてしまうようなところもないではないなあ。なんにせよ、ビニールはダメです。ゴムの方がいい。ゴムの方が丈夫だし。なんだそりゃ。
 ともかく古本の話でしたね。古本もビニールかかっている場合がありますが、まあビニールは関係ないです。古本屋めぐりなんですけれど、最近はブックオフができたので、大幅なルート変更を余儀なくされました。だって、都心から早稲田経由で中野へ行っちゃったら、東中野に寄るでしょ?落合にも寄るでしょ?ねえ。 まあ状態が悪いので全く買わないわけですが。
 いや、新しい古本屋さんというのはなにやら期待感が一杯なのですね。なにかいいものがありそうで。でも、チェーン店なんだから、実際には全然いいものはないんですよね。よその店でいらなくなったものやら、卸から大量に仕入れたものなんかを入れているわけですから。だから新しいチェーン展開の古本屋さんはダメ。すごくメジャーだけどたまたま持っていない漫画をバラでそろえている、っていうんなら話は別ですが。
 で、古本屋を巡るときは大体10店くらいを廻ります。そうしないと、その時期にどんな漫画がどの店にあるかわからない。でも、本当に欲しい本がたまたま1店目にあると、メザトク見つけたチャリンコ野郎は、ダレカニウバワレテハナラヌ、などと突如として真剣居合い抜きモードに突入し、目の端たぎらせながらすかさず目当てのブツを小脇に抱え、レジなどに突進してしまうのであります。夏目漱石を1枚渡し、穴の空いた小銭を1枚もらって次の店に向かうと、そこにあるんだ、これが。同じものが半額。居合い抜き男は途端に逆上し、思いつくまま気の向くまま、手に触れるものをとにかく棚の端から買ってしまおうかという散財モードに突入するわけなのです。突入しながら、最初の店にはポイントカードがない、この店にはポイントカードがあるから2重の散財だなどと、ますます頭に血が上る。実際のところ、ポイントカードの得点なんて微々たるもんですけど。
 こんなことがあるから、チャリンコ野郎はチャリンコにカゴをつけず、背中に小さいリュックをしょって、予定以上の荷物にならないよう用心するのですが、そうなると戦利品はよくよく吟味されたものでなければならないので、検分に時間がかかってしまうわけです。おおっ、これは欲しい、欲しくて堪らないと思いながら、ううむ他の店でもっと安く売っていたら、怒りのあまり叩っ切ってしまいそうだ。全部見てから見てから……などと思って全店見回しても、どこでも見つからない。いやはや無駄足を踏んだ、などと最初の店に戻ってみれば、そこにはお目当ての品が……ない。うむむむ、誰だ私の『ルナ先生』を奪った不届き者わぁぁぁぁ、などと叫んでしまうわけです。
 というわけで、必然的にその場その場で、その品がいま買うに値するかを、頭の中のコンピュータで演算処理させるわけです。これが、まずあたった試しがない。仕方がないので、良いものがなさそうな店から、ありそうな店へという順で回ることにしています。だから、僕が五反田から早稲田に行って、東中野を回って大塚に向かい、荻窪に突入してから大久保へ舞い戻り、中野によってから渋谷へ到着するのも、不思議でもなんでもありません。そこには深慮遠謀があるのです。徹底した要領の悪さもあるのですけど。

Vol.12 そんなに風化が怖いか? (2001.1.9)〔w〕
 このサイトでは、これまでいかに漫画に文化的な価値があるかを論じてきた。そしてそれは正しいことだと思ってきたし、漫画を愛する多くのファンがおそらく同じ思いを抱いているに違いないとも思っていた。しかし、それはどうやら思い過ごしのようであったらしい。
 最近、漫画に文化的な価値をつけることによって、歌舞伎や落語のような「枯れた」文化になってしまうのではないかという、危惧に似た意見をよく耳にする。確かに落語が「枯れだした」というのは日本では既に共通した認識になっているようで、実際に真打の落語家も次々と古典から新作へと移行しだしている。小朝や昇太を始めとした若手をリードする次世代の旗手たちは、みな英知を振り絞り、その文化を枯れさせないよう必死の努力を続けているが、依然として寄席に向かう若者の足は少ない。歌舞伎は何処か異次元の文化のように見られている向きがあり、実際に若年になればなるほど歌舞伎役者の名前の区別がつかないと云う。能や狂言の立場も大差はなく、実際に放映しているTVはNHKか、衛星・ケーブル等の多チャンネル媒体のみだ。
 だからこそ、漫画がそんな風化してしまった文化のようになってはならないのだという。しかし、「枯れる」事、風化することがそんなに恐れるほど怖ろしいことなのだろうか。
 実際に「枯れた」漫画は現在すでに登場しだしている。一部を除き、日刊新聞に掲載される4コマ、風刺漫画などはその最たるものだろうし、漫画専門誌でも黒鉄ヒロシの「赤兵衛」などは、小学生が見れば何が面白いのかわからないのではないだろうか。そもそも起源は風刺から始まったとされる漫画だが、手塚以降より高度になったシナリオ性と技術や、道具の進歩によって格段に精密になった画力などによってめまぐるしい飛躍を遂げた現在からみれば、初期の漫画など比較の対象にすら値しないモノにも見える。しかし、そんな「枯れた」漫画に全く需要がないかといえば、決してそうではない。
 我々漫画を愛する人間には、総じて若者が多い。若者の価値観からすれば不要なモノでも、もっと上の世代からしてみればこの上なく大事なモノである場合もあるだろう。もちろん、若者がそういった中高年世代の価値観を全く無視しているとは云わない。ただ、我々は若く、若い人間は得てして見識が狭いものである。彼らの価値観を尊重するのを怠ったり、忘れてしまうケースがないと言い切れるだろうか。それは「大人」が我々の価値観を無視してしまうことがあるのと同じように、非常に起こりやすいものではないのだろうか。
 また我々は、興味のないモノを「価値がない」と安易に言い過ぎてはいないだろうか。自分には価値のないモノであっても、社会全体に価値がないとは云いきれないのは自明の理である。我々が良い読者であるためには、作品の価値をもっと正確に判断しなければならない。時には主観的に、時には客観的に読み進めながら、作者の意図を読み取っていかねばならない。あるいは作者が思いを十分に巡らすことが出来なかった部分を見つけださなければならない。それを具体化したのが批評であり、その為に批評があると思う。他人の見解を参考にし、自分の考察の参考にする。そして互いを高め合い、あるいはその批評を作者自身に呈示することによって、より漫画界が高いレベルへ登っていくだろう。
 風化してもよいではないか。それは漫画というジャンルの裾野がより広がったと解釈すればいいだけのことである。漫画はまだ若い文化だ。その一部が芸術という高みに登ってもいいし、あるいはパロディとして大衆社会を支える潤滑油となってもいい。親の世代や祖父母の世代、あるいは子や孫の世代、果てしなく愛される媒体として漫画がある、そんな夢をまだ見続けてもいい時期だと思う。

Vol.11 キャラクターのネーミング (2000.8.30)〔w〕
 何故か漫画には現実の人物をキャラクターとして借りることが多い。もちろん、ノンフィクションや歴史ものなど実在した人物を描いたフィクションを指しているわけではない。スポーツ・政治など一般的に認知度の高い世界を限定的に描いている作品で行われる部分借りの事だ。たとえて云えば前者が「バカボンド」や「まんが道」で、シナリオもキャラクターもほぼ真実に沿った内容であるのに対し、後者は「あぶさん」のように、シナリオもキャラクターも作者の創造と実在の部分が混じり合っているものを指す。あるいは「愛しのバットマン」のように、一応全面的に創作した雰囲気を作り出しているが、一部で実在の人物もしくは人物関係を匂わしているものもあり、これは後者に属されるべきだろう。なぜなら、読者が実在のものに対して抱いているイメージをその作品で利用していると云う点で共通性があるからだ。
 さて、そんな部分借りを行っている作品も、いくつかの区分が出来る。まず、キャラクターの名前をそのまま拝借している場合で、先述の「あぶさん」や「F」、「風の大地」などがそれにあたる。一方でキャラクターを明らかに拝借したとわかる場合があり、「沈黙の艦隊」「モンキーターン」などがそれだ。さらに極力モデルの存在を匂わせないよう努力しているものもあり、「加治隆介の議」などがそれにあたるだろう。とはいえ、これらの区分は必ずしも明確ではなく、複数の要素が絡み合ったものも少なくない。
 こういった作品はスポーツ、なかでもプロスポーツを描いた作品に多く見受けられる。「キャプテン」「プレイボール」には借り物はないが、「リトル巨人くん」にはある。同じ作者でも「甲子園の空に笑え!」にはないが、「メイプル戦記」にはある。同じ作品でも「俺たちのフィールド」は主人公がプロに進んでから借り物が出てくるし、「ドカベン」もプロ野球編になって急激にそれが増えた。世間の認知度が高く情報量が多いプロの世界の方が、より借りやすいという事を証明した好例であると思う。
 一方これらの事例とは別に、名前だけを借りてくるケースもある。「ろくでなしブルース」はキャラクターの殆どがボクサーの名前だが、実在のボクサーとキャラクター性がリンクしていない。作者の「手抜き」と見ることもできるが、次作「ROOKIES」でも阪神タイガースの選手名を使用していることを考えれば、どうやらこれは完全な確信犯のようだ。こうなってくると、作者には何らかの意図があることが推測でき、「手抜き」とは断定できなくなる。一方で後書きや中書きではっきりとモデルの存在を暴露している作品もあるが、こちらは安易なネーミングを自ら露呈しているケースであることが多い。モデルの存在を明らかにする行動は、ファンサービスといえば聞こえはいいが、作品そのものの価値を向上させるものではなく、何ら意味を持たない。熱狂的な読者の歓心を煽るだけのものだ。
 モデルがあるとストーリーは築きやすい。我々はとかく工夫や改良が得意と言われる日本人であるから、ますますその傾向が強いのかもしれない。だが、もちろんこのようなやり方は安易であり、堕落と云っても良い。しかしスポーツマンガ、特に野球やサッカーなどのプロスポーツを描く上で、人物・舞台背景・シナリオ等でモデルを持たないものはほぼ皆無と云っていい。なぜなら、ストーリー作成の技術が頽廃する一方で、それを補って余りあるだけの表現上の効果をも生みだしているからである。軽妙で親しみやすさを重視したエンタテイメント作品で、緻密で凝った仰々しい設定を押しつけられても、読者は煩わしく感じるだけだ。