Vol.20 ビニールカバーは本当に必要なのか (2001.12.16)〔w〕
 どうやら完全に恒常化してしまった、新刊本のビニールカバー。立ち読みや汚れるのを防ぐための対策だというのは十分にわかるが、消費者の利益は全く無視した愚行だということは以前にも書いた。しかし、今度は「購入するときに内容が確認できない」という反論に答えるためか、また安易で短絡的な手段を出版社は講じてきたように見える。裏表紙(いわゆる表4)に書かれる「あらすじ」である。
 以前から一部では行われてきた、収録内容のあらすじ書き。しかし、それは袖を利用していわば「まえがき」的な意味合いで使われていたり、少女漫画などにおいて短編を同時収録する場合にその説明をするための但し書き的な要素として使われていた。しかし、最近目立つものはまちがいなくそういった意図で書かれているものではない。中には袖のあらすじとほとんど変わらぬ内容を裏表紙にもわざわざ書いている単行本もあり、なにか悲しいものを感じてしまう。
 一方で、1冊だけ見本として読める状態にしておき、残りの在庫はビニールにかけておくという方法を採る書店も出てきた。これは折衷案としては実に好感の持てるものだが、残念ながら大概の書店では売れ筋の新刊にしかこの方法が採られていない。実際「歯抜け」の1冊を探すときなどには何の役にも立たない。出版不況で書店も大変であろうが、もう少し消費者を見る視点があってもいいと思う。

Vol.19 寝る前とトイレ (2001.10.28)〔w〕
 個人的な話で恐縮だが、ここのところめっきり忙しくてあまり漫画を読むヒマがない。通勤途中の電車の中や食事しながら読もうとも思うが、運動不足になるから少しでも好きな自転車で通勤したいし、そもそも電車に乗ると疲れて眠くなってしまう。食事中に読みながら食べるのはちょっと難しいし、こぼそうものなら大事な単行本を汚してしまう。というわけで、勢いどうしても就寝前とトイレにこもっている間に読むケースが多くなってしまった。
 しかしながら、ドラマチックで壮大なストーリー漫画などを寝る前に読み始めると「もうちょっと……」などとずるずる読み続け、ただでさえ深刻な寝不足がどんどん加速してしまう。トイレの中はいわずもがな、そう長時間こもっていられるものではない。そういう時にありがたいのが、1話完結オムニバス形の漫画。これなら細かい時間を利用してちょこちょこ読める。従来はこの中途半端なスタイルを嫌っていた部分があったのだが、最近は実に重宝している。そもそも、「ドラえもん」といい「Dr.スランプ」といい「こち亀」といい、このスタイルの漫画は昔から隆盛を極めているのだ。しかし反面で、この手の作品は「中身がない」、つまり純粋なエンターテイメントであったり高質なストーリー漫画になりきれない作品であったりすることも少なくない。特に少年漫画や青年漫画でその傾向が強いようだ。
 一方、成年漫画や少女漫画では、この手の作品の絶対数は少ないが、質ではハイレベルなものが多い。「赤ちゃんと僕」は、主人公拓也と弟の実のキャラクター性と、受けのいい絵柄で女性の間で高い人気を示した作品だった。しかし、その中身はキャッチーなイメージに反して重厚で、深さがありながら重苦しさが少ない。
 これだけでなく、たとえば「サトラレ」にしても「ぽっかぽか」にしても、別段不当な評価を受けている訳ではないし、むしろ社会的にも概ねその質の高さが評価されているのだとは思うが、なんとなく「読みやすさ」という点には着目されていないような気がする。もちろん、大きな波を作品を通して提供しようとする大河的なストーリーはそれはそれでその良さがあるし、そういった作品に簡易的な読みやすさを求める気はない。ただ細かい点ではあるのだが、そういった心配りのある作品のやさしさ(結果的にそうなっただけであったとしても)に、もう少し注目してあげてもいいのではないかと思う。

Vol.18 倫理基準の難しさ (2001.8.19)〔w〕
 一時期、世間の耳目を集めた有害図書騒動からしばらくの時が経過した。基本的には、一部で危惧されていたような極端な規制は行われてはおらず、むしろ昨今の青年誌などでは性的・暴力的描写のレベルが少しずつ寛容になってきている感もある。それだけに、反対の意味での心配が少なからず生まれてきてしまったのではないかと思う。
 気付けば、現代は数年前では考えられないほど表現に対して開放的になっている。テレビ番組ではゴールデンタイムからタレントが性についてあけすけな発言を行い、オリコンの1位に輝くヒットソングには「セックス」という言葉が当たり前のように出てくる。プログラムは、常に新しいことをしようとすればよりインパクトのある表現を探さなければならず、勢いじわじわとそのボーダーも上昇していく。何か強力な反発が起こらない限りそれは歯止めがかかることはないし、実際にそうしてここ数年に渡って、あらゆる媒体が派手な表現を求めるようになってきた。
 漫画界もそのボーダーラインがかなりあやしい状態になっている。青年誌と成人誌の区分はほとんど見分けのつかないレベルになっているし、収録されている作品もまた同様だ。青年誌に収録されていた作品が単行本になった途端に成人指定されていたり、そうならずとも、かつての成人指定作品より過激な作品が数多くあったりもする。出版社は営利目的からか、そのあたりの基準を明確に定めようとはしないし、またそれを行う第3者機関も存在しない。
 当然ながら、消費者である読者がこういったことに対してクレームを付けることは極めて少ない。むしろ、基準が明確になることを望まない消費者が圧倒的多数であるのも事実だろう。しかしこういった曖昧な現況は、社会文化的に決して好ましいことではない。他国との文化交流を行う上でダブルスタンダードが生まれることも想定されるし、安易な商業主義が幅を利かせる状況が生み出される可能性もより高くなる。
 漫画の文化的価値を高める上であらゆる規制を行うことは、確かにその障壁の一端となるだろう。しかし、我々は区別をすることに対して、臆病になってはならないのではないか。成人指定作品を減らそうとするのではなく、成人指定された作品に対する偏見をなくすことに努力をすべきで、ボーダーライン付近の作品がみな成人指定を嫌うような状況は、ますます成人指定作品の地盤沈下を巻き起こしていく。作者が作品の中で性表現を必要とするのであれば、きちんと成人のみに上質な表現を提供すればいいだけの事である。

Vol.17 批評のあり方(2) (2001.6.16)〔w〕
 批評には「論理批評」「感想批評」「倫理批評」の3つがあることは以前述べた。論理批評は理論的に長所・短所を指摘し、その価値を客観的に判断するもの、感想批評は評者の主観に基づいて評を下すもの、倫理批評は主に社会倫理に反するものでないかを吟味するものであるが、このうち倫理批評は正確には批評とはいえない、批評とするに値しないものである可能性が大きい。倫理批評は可否を問うその特性上、批判することはあっても評価することはないからで、実際にその内容は他の2つと大きく様相が異なる。また、そもそも批評の持つ社会的な役割を鑑みれば、文化の進歩・進展という点で足を引っ張る存在であり続ける倫理批評は、その意義に根本から反している面を持ち合わせた存在であるともいえるだろう。
 論理批評は論理的に構成され、万人に通用するものであることが身上であるから、社会的意義は最も大きい。しかし、その理屈っぽさはしばしば堅苦しいイメージを副産物として生み出してしまい、少なからず敬遠される傾向がある。正確で的を射た、的確な批評を行おうとも、相手に誤った形で伝わったのでは効果はなく、現代はそういった誤解を生み出しやすい環境が整いすぎてしまっている。
 一方で感想批評は倫理批評よりは自由が利くし、気軽にその特性を楽しむことが出来るという点では他の追随を許さない。さらに、同様の趣味や指向性を持った者がそれを共有することによって、人間関係の向上や知的好奇心の発揚に役だつほか、発想が広がり、想像力が逞しくなり、洞察力が深くなることによって、個人個人のスキルのレベルアップにもつながる。しかし反面で主観的であるために、その効果は極めて限定されてしまう存在であり、かつ大きな危険性もいくつか含んでいる。
 批評というのは本来他人に向けて発信されるものである。批評者は批評対象の作者が持つのと同じように、その批評に対する他人の反応を根元的なエクスキューズとして欲求する。しかしながら主観的な感想批評は、往々にして期待通りの反応を呼ばないことが多い。だが、本来個人的な見解であることを承知の上で行っているべき評者は、その鈍い反応(あるいは反対の意味で鋭い反応)に戸惑い、時には不快感すら抱いてしまう。近年は自覚のない評者による感想批評の氾濫によって、至る所でそういった場面が見られる。リスクを承知して行っているはずがいつかそれを忘れ、果てはリスクヘッジを求めるという本末転倒なケースさえ現実には少なくない。
 これほどまでに感想批評が氾濫しているのは、プロの批評家さえもが自覚のないまま批評を行っていることにも一端があると思う。漫画評の世界も例外ではなく、多くの評者が偏向的であることを自覚のないまま、批評を行っているような気がしてならない。それが顕著に現れるのが比較的無難な、メジャーとマイナーの中間に位置する作品の批評で、特別に批判する点も評価する部分も見あたらないとして「平凡」と片づけられることが多い。飛び抜けて良い点は同意を求めるだけで賛意を得られるし、元々嫌悪感を抱くような部分を示せば説明する必要がない。説明や解説を行わなくても、ちょっと鋭そうなポイントを指し示すだけで、感想批評として、あるいは批評として十分であるということなのだ。中間層の作品は大きな起伏はなくとも、小さな隆起を丹念に重ねて構築されているものが多いのだが、そういった作品は細かい指摘や解説が必要となるから、そういった面倒な作業必然的に批評の数も減ってしまう。
 宝島社の「別冊宝島」シリーズで、尾瀬あきら氏の「みのり伝説」がたびたび「イヤな漫画」として登場する。その主な理由として挙げられているのが「リアリティのなさ」だと云う。出版業界ではあり得ないようなことが次々と繰り広げられるというのだが、リアリティのない漫画はそれこそ世の中には無限にある。極論を言えばリアリティのある作品よりも、リアリティのない作品の方が多いのではないかとも思うほどなのだが、つまり評者は出版関係者であり、内部から見るとあり得ないような描き方をされているこの作品のアラが立場上、より鮮明に見えてしまったのだろう。
 しかし、批評としてはこれほど受け手をバカにした話はない。出版関係者は共感するかもしれないが、その他の人にとってはまったく共感できるものではない。場合によっては、まるでその意見に自分がシンクロできないことをバカにされているような不快感すら覚えてしまうだろう。こういったことを考慮しないで書かれているのだとすれば、何とも次元の低い話だ。
 ここまで低レベルではなくても、感想批評は非常にミスを呼びやすい特性を持っている。中でも起こりやすいのが不用意な断定・決めつけで、それが主観であるにも関わらず、事実として断言してしまうケースだ。「感動的なストーリー」と書けばいいものを、「感動するストーリー」などとしてしまう。自分が感動したからといって、全ての人が感動するとは限らない。感動するかどうかは個人によって異なるし、一般論として「感動しやすい傾向のストーリー」であることを伝えたいのであれば、前者のように書けばいいのだ。しかし、多くの評者はそのあたりを配慮できなりでいるし、無意識に使用してしまっている。日本には古くから曖昧な雰囲気をぼかして伝えることに価値観を見出す傾向がある。「阿吽の呼吸」というものがそれで、芸術の創造面では大きな役割を果たしてきた。しかしながら、理詰めで考える能力を退化させ、論理批評を後退させる面も併せ持っている。作るモノは素晴らしいが、批評は拙い。そんなアンバランスな状況が現代になって徐々に露呈しだしているのではないだろうか。
 さらに感想批評は、批評としての効果そのものも薄い。欠点と長所の双方を指摘するという点は持ち合わせているが、その作り手に対する提案やサポート能力は全くといっていいほど存在しない。「ここがいいから、もっとふくらませろ」「ここが悪いから何とかしろ」というだけであって、「こうすればもっと良くなる」という前向きな提言を行うことがほとんど出来ないのだ。出来るとしても、幾多の感想を集めて傾向論として方向性を呈示する程度のものだが、漫画界においてそのサポートはしばしばアンケートという形で、編集者による偏向的な商業主義を呼び起こす呼び水になってきた。価値観の1つのサンプルとして冷静に伝えることが出来れば、自分の中から生まれなかった発想や着眼点を示すことができ、より深い考察を行う手がかりになるのだが、現状ではなかなかそうはいかないことが多い。
 批評というのは、あくまで他人に良い影響を与えてこそ意味のあるものである。多くの人に何らかのプラスの意味合いを与えるものでないとしたら、それは放言や中傷にすぎない。残念なのは、現状では批評と謳うものの大多数が批判に、批判と名乗る多くのものが非難に、非難と云われるほとんどのものが中傷に成り下がっている事だ。無意識のうちに過剰な表現で批評を行うことは、そろそろ終わりにしたい。その批評は作者に見せても恥ずかしくない、問題のない批評であるのか。もう一度考える必要があるのではないだろうか。

Vol.16 「夢オチ」の罪 (2001.5.12)〔w〕
 突飛な設定や辻褄の合わない展開を無理矢理合わせてしまうために、話の最後を「実は夢だった」(またはそれに準じるもの)という強引なオチとする手法を、一般的に「夢オチ」という。よく強引に連載を終了しなければならない、連載打ち切りの時などに多用されると云われ、必然的にこの手法を採った作品はクオリティが極端に下がるため、ここしばらくこの手の作品は一部の成人向け作品や同人誌を除いて、ほとんど見られることはなかった。しかしここ最近になって、メジャー誌に連載されたものにもふたたびこういった作品がちらほら現れだしている。
 「夢オチ」が批判される理由は、主として2つあるのではないかと思われる。1つは、そのスクリプトになんの論理性も存在しないからで、これはそもそも整合性を作り上げるために無理矢理使うことが多いためであり、当然予想される副産物である。だがこの副産物がさらにマイナスの副産物を生むという点も見逃してはならない。それは、「夢オチ」という手法が一般化してしまったことによる「飽き」が読者に生まれ、作品の新鮮味を際限なく奪ってしまうと云うこと、またこれまで「夢オチ」を使用してきた作品がほぼ例外なく駄作であったために生まれた「マイナスイメージ」がつきまとってしまうことであり、理屈で考えようと感情で判断しようと、どちらにせよ「悪い」と断定せざるを得ないことになってしまう。
 2つめは読者に対する「裏切り」である。「夢オチ」が多用され、問題視される部分は主として作品の最後であることが多いが、そもそもクライマックスとはまさにその作品の最注目点であるのだ。いわば最も注意して作り上げなければならない部分であるのだが、しかしながら「夢オチ」は考えられるクライマックスの中で最も残念で、最低ランクに位置される表現方法である。前述した「新鮮味の欠如」や「マイナスイメージ」はもちろん、ここまでに描かれてきた全てのシナリオを全く無にしてしまう。作品の最後にあるクライマックスだからこそ、それ以降のストーリーの伏線として編み込むことも出来ず、その時点で破綻が約束されてしまう。つまり、それまで人気が無くともその作品を好んで読んできた読者には絶望的な喪失感を与え、また人気があれどもどうやって纏めるものかと心配していた読者には不条理な虚無感を与えてしまう。
 いかに存在意義の薄い表現方法といっても何らかの使い道がありそうなものであるが、「夢オチ」という手法だけはもはやストーリー漫画においてその存在意義は無くなったといっても差し支えないように思う。ギャグやパロディでの有意義な活用はともかく、打ち切りや構成の手抜きによる使用だけは断じて避けられなければならない。