| Vol.24 「左開き」のすすめ (2002.12.29)〔w〕 |
| ついに『週刊少年ジャンプ』が米国へ進出だ。集英社は同誌のアメリカ版(英語版)として、11月26日からサンフランシスコの出版社「ビズ・コミュニケーションズ」より、月刊誌『SHONEN
JUMP』を発売した。欧州で発売されている『BANZAI!』に続く海外進出ということになる。 アニメに比べると海外、とくに欧米への進出は遅れ気味だった漫画界。その原因は言葉の違いによる表現の差異(特に活字以外の効果音に代表される手書き文字)や権利関係の問題にあるだろうが、現在もなお解決の糸口すら見つかっていない問題も残っている。その殆どが右開きで作られている日本の漫画が、左開きで読むことが当然とされている国で受け入れられるのかということだ。 フランスやイタリア、ドイツなど欧州の国では、既に日本漫画はかなりの地位を築き上げているという。そこで「右開きだから読めない」という声は聞かない。どうやら今のところ、世界の漫画愛好者にはそれほど違和感なく受け入れられているようだが、果たして米国でも同じように通用するのか。また、今回は表面上何の問題もないように見えても、今後日本漫画がどんどん流出していくとしたら何か重大な障害にならないとも限らない。 何故、日本の漫画はここまで型にはめたように右開きなのか。何故、左開きの漫画が生まれなかったのか。理由は判然とはしないが、現在では左開きの漫画が受け入れられる下地は整っている。一般雑誌にはグラフ誌などを中心に左開きの雑誌が増えているし、WEB上では一般的に横書きのパターンが多い。こういった媒体では、例えば4コマでも縦に置くよりは横に置いた方が読みやすいし、デザインもしやすい。 確かに日本では、漫画が右開きでも何の問題も起こらないかもしれないが、そこに固執する必要もない筈である。左開きに合った表現に挑戦し、それが昇華されていく中で新しい表現が発見される余地があるのではないかと考えたとき、漫画が海外進出しようとしている今はそれに取り組む絶好の機会ではないだろうか。世界中の人々が日本の漫画を読む、そしてそれが“日本製”なのだと気付かずに楽しむ。そんな野望が作家にも、編集サイドにもあっていいと思う。 |
| Vol.23 裁ち落としかノンブルか (2002.12.29)〔w〕 |
| 80年代半ばから終わりにかけて、大味なカットワークを好む少年誌やアクションシーンが主体の一部青年誌で、外枠の一部を無視してカットをページの端まではみ出して描く、いわゆる「裁ち落とし」が急速に増えていった時期があった。それまで上下左右の余白は、印刷の裁断工程において必然的に生じてしまう誤差を容認させるために存在しており、漫画のみならず一般書籍や雑誌にも共通するものだったが、この頃に急速に進歩した印刷技術とデザイン業界の質的向上、漫画全体の読者層が高年化したこと(新書版サイズの単行本が主体の少年漫画のシェアが減少し、連載雑誌と紙の縦横比が等しいB6版の青年漫画が増えたことにより、単行本化するにあたって組版の手間が大幅に減少した)等によって、デザイン面での役割が主体となった。当時は安易な裁ち落としは出版社の内部や関係者が良識を持って制する向きがあったが、あまりに一般化してしまった90年代の後半くらいからは、もはやそういった声を全く聞かなくなってしまった。それこそ、「3段ぶち抜き」「4段ぶち抜き」がいつの間にか当たり前になってしまったのと同じように。 確かに裁ち落としを利用することによって、迫力のある構図を生むことができる。自由度が高まるからデザインを工夫する余地も増える。一部の少年漫画や青年漫画は、これによって際限なく大味になっていっているのは由々しき問題だが、「迫力」と「見やすさ」は紙一重の問題であることがわかっていれば自ずと解決する問題であるから、安易に規制しようと考えることは確かに愚かなことであろう。 しかし、外枠の総量が減ったことに対して、作者・編集サイドが共に十分な実感を持っていないことは問題ではないだろうか。最も顕著に現れているのがノンブル(ページ番号)の存在で、少年漫画の中には20〜30ページほどの間、全くノンブルが出てこないことが少なくない。それでも単行本は特定のページを開こうとする事が比較的少ない。せいぜい、友人と電話などで話題に上ったときにページを特定するときに困る程度だが、連載雑誌の方は実に問題だ。巻末の目次を見て、特定のページを開こうとしてもなかなか見つからない。仕方なく、前後の作品からこのくらいの位置かと類推しながら開くハメになる。漫画以外の一般雑誌ではあり得ない、不親切極まりない状態がまかり通っている現状は、異常極まりない。漫画以外の一般雑誌には連載もあれば特集もあるため、表紙で謳った内容がすぐ判るように目次とノンブルを慎重に合わせる。漫画雑誌は構成内容のほとんどが連載作品であるため、こんなおかしな事になっているのだろうか。 絵の上にかぶせるのは抵抗もあるだろうが、思いきって見開きの左右どちらかのページには、強制的にノンブルを入れてしまってはどうだろうか。せっかく書いた絵の上に番号を乗せられてはたまらない、という作者がいるのなら、裁ち落としをやめてしまえばいいだけの話だ。漫画家はストーリーテーラーであり、グラッフィッカーであると同時に、デザイナーでもある。見開きのどちらにもノンブルが入れられないような作品があるというのなら、それは余程デザイン能力がない描き手が描いたモノだと思うのだが。 |
| Vol.22 アートよりデザイン?! (2002.4.28)〔w〕 |
| 絵画でも写真でも、日本人は「デザイン」よりも「アート」を重視する傾向にあるらしい。確かに建築美やらデザインコンクールが大々的に取り上げられた事など、ないような気がする。それで、困ったことに漫画もどうやらそんな評価をされているような気がするのだ。 アートとは、おそらく個性的な描かれ方をすることではないかと思う。それは少なからず感性的で、感覚的で、他人には説明しづらい情感的な評価である。インパクトがある、独自的だといえば聞こえはいいが、ただ奇抜で物珍しいだけのものも、なんだか必要以上に評価されている嫌いがあるのではないか。一方、デザインはどうにも地味な分野であり、どれだけ素材を有効に活かすかと言うところにそのクオリティの判断ポイントがある。つまり、際限なく「加点」されていくアートに対し、以下に「減点」をなくしていくかという点に存在意義があるデザインは、どうしても分が悪い。 「映画的」と言われる漫画がある。あるいは「絵画的」と言われる漫画もある。前者は動的、後者は静的な絵に使われるケースが多いが、いずれもアーティスティックなものに限って使われる。カット割りや構成、構図による動きに使われるケースは極めて少ない。どうもこの辺りには、サブカルチャーを必要以上に持ち上げる卑屈な精神が内在しているように思われてならない。 絵に限って言えば、漫画はシンプルナイズされていいジャンルだと思う。書き込みの量は評価と比例するものではないし、仮にそうであったなら写真を貼り付けてコマを構成するのが最上の方法になってしまう。その白さをいかに工夫して描くかが「アート」であるなら、それを以下に工夫して置くかが「デザイン」であろう。それぞれの仕事にはそれぞれの役分がある。しかし、どうやら陽の当たる所ばかりを見ようとして、陽陰の部分には目もくれようとしないような、情けないレベルの感受ばかりが横行しているのではないか。まさしく、アクターばかりをちやほやして、ディレクターやエディターを黙殺するような単純な精神が残るこの国を象徴しているかのようだ。 |
| Vol.21 賢い消費者になるために (2002.2.10)〔w〕 |
| 「ドリトル先生」を主人公にした、児童文学の名作シリーズがある。現在の10〜30代を中心に、日本でも多くの読者に愛されてきたシリーズだが、先日この中に黒人差別の表現があるとして「黒人差別をなくす会」が抗議を行っているという報道があった。相手は同シリーズを出版している岩波書店である。 既存のこととは思うが、かつて童話『ちびくろサンボ』が80年代に同様の理由で抗議を受けて絶版となったことがある。この時は、当時いくつかの社が出版していた中で岩波版が最も普及しており、同社が絶版を決めたことが大きく事態を動かした。しかし今回の問題に対しては、同社はシリーズ中在庫部数の少ないものは改訂時に、当面改訂の見込みがたたないものは同封別紙の文章を挿入するという方法を提案しているという。 さて、今回はこの問題自体ではなくこの出版社側の対応について考えてみたい。現在ほとんどの出版社は、同様の抗議を受けたとしても、バブル期ならいざ知らずこの未曾有の不況の中で、即刻裁断・破棄することは経済的に耐えられない状況にある。つまり多くの出版社が一企業としての資本的な体力が弱体化しているわけで、なかでも岩波書店は昨年取次大手の鈴木書店が倒産した余波をモロにかぶったばかりであり、日本経済新聞への身売りの噂が俎上に登るなど、経営的な厳しさをしばしば指摘されている。これは岩波のみならず、いわゆる「文芸系」と云われる出版社はどこも似たような状況で、実際に中央公論が読売新聞に買収されて中央公論新社として再出発したのをはじめ、新潮社は朝日新聞に、文芸春秋は産経や毎日に買収されるのではないかという噂もあった。新潮・文春は前記2社に比べれば文芸に依存している部分が少ないし、両者とも噂を完全否定しているから心配はないだろうが、この時世に全てが順風満帆というわけではないはずだ。 これはいわゆる文芸4社に限ったことではなく、音羽・一ツ橋両陣営の派閥領袖である講談社・小学館も減収・減益を繰り返しているし、集英社、光文社、プレジデント社などのグループ各社も同様だ。角川やマガジンハウス、徳間など他の中堅どころも程度の差はあれ似たような状況であるし、そもそも小学館などはコミックの落ち込みが業績不振の最大の要因となっており、数年前には考えられなかった「漫画が足を引っ張っている」というようなさえ云われかねない状態である。 だがこんな状況の中でも、抗議を行う団体にせよ、問題を指摘する読者にせよ、「出版社→マスコミ→巨大組織」という誤った認識を崩さない。しかしながら、そもそも基本的に出版社は会社として資本面で非常に小規模であるうえ、収益面でも一発ヒットが出たときの伸びは著しいが、反面で売れなかったときのリスクが非常に大きい。また名誉毀損等による訴訟や賠償のリスクも他業種の企業に比べて多く抱えており、実際に一般の中小企業と同じ様な自転車操業を繰り返しているところも少なくない。その点、国家権力や自治体、大規模な団体や企業と同様の視点で批判の大鉈を振りかざしていいものか、疑問が残る。最近の抗議団体などを見ていると、なにか弱者救済を謳いながら、実際に感情的な弱い者イジメを行っているだけのように見えてしまう。無論、当事者は強者を挫いているつもりなのだろうが。 新古書店への対応について昨年議論が巻き起こった際には、少なくない数の読者が出版社への不満を挙げ、そのアンチテーゼとして新古書店の存在を肯定するという、やや筋違いの論理が主張されていた。つまり、「質の高くない作品を売れるからという理由で大量にさばく」「ややもするとすぐ値上げする」という、出版社に対する個人的不満・不平を公憤にすり替え、社会的制裁を加えようとする飛躍した論理だ。困ったことに、この飛躍が一般的消費者の常識になりかけていることに、彼ら自身はもちろん、識者やマスコミも気付いていない現状がある。 抗議団体にしても読者にしても、ここのところ話し合いや申し入れ、あるいは議論という形を取らずに、すぐ「抗議」という手に打って出るケースが多い。ときにはいきなり「訴訟」という手段にでることさえある。しかし、そこには抗議している自分の主張が「絶対である」と盲信する、危険な無自覚が隠されてはいないだろうか。悲しいかな、相手の行動の背景が読めずに簡単に善悪・白黒をつけたがる、日本人のシンプル・マインズが露呈されるだけでなく、まるで「賢い作り手は賢い読者が作る」という言葉が的を射ていることを、反面論理で実証しているかのように思えるのだが。 |